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2011.11.26

談志さんのこと。

Photo始めワタシはこの人の本業が落語家であることを知らなかった。 今から40数年前の小学生の頃。 マンガに浸り、テレビ漬けの日々を送っていたワタシは、NHKテレビの『まんが学校』は毎週欠かさず見ていた。 マンガの巧い描き方指南役であるやなせたかしさんを先生に据えたこの番組の司会進行役が立川談志さんだった。 談志さんの番組の進め方、洒脱なコメント、そしてカッコいい風情に惹かれ、ワタシは小学生ながら「スゴイ司会者」と思った。
当時、今も続く超定番番組『笑点』も当時欠かさず見ていたのだが、やはり司会の談志さんの仕切り方、当意即妙な掛け合い、そして洒落たオチの付け方に、やはりタダモノではないと感じだしたちょうどその頃、「落語家・立川談志」を知った。 その後談志ファンになったワタシは、社会に出てから立川流一門の高座にしばしば出向くことになる。
談志サンの落語家としての仕事で一番印象深いのは、1993年にフジテレビの深夜枠で放送していた『らくごのピン』。 当時まだ駆け出しの談春や志らくをはじめ、真打ち昇進直後の昇太やら既に大御所然としていた小朝、立川藤志楼こと高田文夫サン、そして贔屓の志の輔などなど多士済々。 もちろん家元の長講も堪能できる豪華な構成だった。
『らくごのピン』は公開録画のため、ワタシは会場の深川江戸資料館ホールでの収録に何度か出向いたことがある。 目的はもちろん談志サンの芸を至近で観ること。 が、家元はしばしば予定の時間に現われなかった。 弟子たちは師匠がいつ来てくれるのかわからない不安な中で緊張の高座を務める訳だが、この風情そのものが立川流独特の“師弟愛”のように感じた。 「まだ来やがりませんので・・」志らくのぞんざいなセリフが、師匠へのリスペクトに溢れていた。
ある時、収録の本番が始まってもなお、某所で酒を呑んでいたという談志サン。 何とか収録ギリギリの時間に会場に現われ、ほろ酔いで一席演ったのはいいが、放送コード越えの単語を連発し、実際のオンエアでは「クチパク」が何か所も入っていた。

2談志サンが亡くなり、新聞に何人もが天才落語家の至芸と破天荒な人となりを偲ぶコメントを載せていた中で、桂米朝サンのひとことが光っていた。「むちゃを演じていた」。
ワタシは、談志サンの凄みは、自らが落語の世界を演じていたことにあったように思える。 落語という芸そのものや弟子そして聴衆に対する愛情。 番組の進行役や司会者としての細やかな気配り。 そして、「ことば」に対する拘りは、ムチャを演じ豪放に映った生きざまとは逆の、談志サンの才気であり人となりだったように思えてならない。 そして、高座でも司会者席でも、ふとしたハナシの間合いに見せるチャーミングな笑顔が忘れられない。

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コメント

zapさん、ご無沙汰しとります。

米朝師匠の談、「ムチャを演じていた」という説にワタシも賛成です。会ったこともないし、高座をナマで聴いたことすらないんだけど。
でも何となくそんな感じがします。
立川談志は内面の繊細さを隠し通せるだけのある種の「ニブさ」を持ち合わせていなかったのでしょう。だから隠し通すどころかほとんど丸出しになっていたように見えました。

昔、ワタシが幼稚園児だったか小学生だった頃、NHKの何かの番組の司会をやなせたかしと二人でやっていたことがあったなあ、と思いましたが、あれは「まんが学校」でしたか。
やなせたかしに立川談志(年長者順)とは今思えば凄いコンビですが・・・ある時、談志がミョーな帽子を被って登場し、それを見ていた亡父は、談志はこの間殴られたのでそれを隠すためにあんな帽子を被っているのだ、と言っていたのを憶えています。真偽はさておき、昭和30年代終りのその頃から既に談志はそういう風に世間では見られていたようです。

談志の落語は、いくつか録音で聴いたことはありますけど、特にこれは、と感じるものがありませんでした。そこはもう、枝雀をはじめとする他の噺家さんとは決定的に違うところです。ムロン、ワタシにとっては、ですが。
残念ながら、縁が無かった、としか言い様がありません。

それでも訃報が出る数日前に図書館から借りて来た「談志百席」なるCDの第一席、ご発声に曰く、「『談志百席』なんて、オレこんなのやりたくねーんだよな。もうからないんだもん。講演(公演?)一回やった方がよほどもうかる。こんなの頼むヤツも頼むヤツだよなあ・・・」(記憶で書いているので不正確ですが)なんて、のっけからぼやいていたのが妙に可笑しかった。

その程度のかそけき縁ではありましたが、残された録音映像から少しは感ずるものがこれから出て来るのかも知れません。カラヤン御大のように。

妄言多謝。

投稿: 赤壁周庵 | 2011.12.10 17:49

たびたび失礼。
「談志が死んだ」のポスター、「Bコース」に名を連ねている「不二身」とは、かの赤塚不二夫先生ですね・・・
時の流れを感じます。

投稿: 赤壁周庵 | 2011.12.10 17:52

周庵先生。

談志さんが亡くなったときのマスコミの報じ方は、「天才落語家」という表現をお決まりのように使っていましたが、国会議員や政務次官を経験した一方、ハチャメチャを演ずる江戸のウルサオヤジ、といった唯一無二な存在感を放つ一人の人間として論評していたような印象です。
なんだか、アウトローな江戸人を、落語のパワーを借りて一生涯演じていたのではないかという風にも思います。
ただ、ワタシは「司会者」のイメージが刷り込まれていたので、高座を見ても、落語噺本編よりも、マクラやら「挿話」を語る家元の方が談志さんらしい感じがして、自らの芸ごとを、自らが仕切ったり、カット割りまでしたりして「司会進行」の役割をこなしていたようにも思えます。
弟子に対してもキビシイ指導をしてたと思いますし、同様に自らに対しても終生手抜きはしなかったんだと思います。
江戸落語と上方のそれとのそもそもの文化の違いと思いますが、カラリとしたギャグで押し通す西方のノリに比して、東京はどちらかと言うとウェットでハードな「噺」(例えば“人情系”)をその身上にしているように思います。
だから、西方の大御所が例えば米朝であり枝雀だとすると、それらの御大の芸風に慣れ親しんでいる感覚では、やはり立川談志さんの「硬性」な芸はなかなかシックリこないところがあるのかも知れません。
ちなみに、ワタシは立川談志さんの高座には何度も赴きましたが、レコードやらCDは一枚も持っていません。
ひょっとして、あのライヴな“危ナサ”を体感しに通っていたのかも知れないです(^^)

ZAP

投稿: zap | 2011.12.12 23:40

zapさん、しつこくすみません。

その昔、「植木等デラックス」なる番組に立川談志がゲストで出たことがあって、その最初にお弟子さん二人が「立川ボーイズ」と称して短い漫才(?)をやっていたなあ、あれは誰だったのかなあ、20年前だけど大成したのかなあ、辞めてったのかなあ、と思い立って昔のビデオを引っ張り出して見て見たら談春と志らくでした(^^;;;
20年前、若いなあ・・・うちの師匠は時間に遅れるというヘキがありまして、鄧小平を3時間待たせて殺されそうになった、なんてヨタな話をしてまして、抱腹絶倒ものでした。

投稿: 赤壁周庵 | 2012.01.14 08:18

周庵先生。

まいどありがとうございます。
こういうビデオソフトが引っ張りだしたらスグそこにある、というのはさすがにヲタ度が高いっす(^^)
落語家同士の掛け合いはなかなかシックリこないことがあるように思いますけど、談春と志らくの漫才はオモロそうやねぇ。
数日前、BS-TBSの談志追善番組で1960年代に収録した「三人落語」てーのをやってました。師匠の柳家小さんと弟弟子のさん治(今の小さん治)と30歳の談志が高座に3人並んで『蒟蒻問答』を掛け合いで演るという珍しい光景。
趣向としては面白いのだけど、ひとつの演目を複数の噺家が語ること自体の不自然さに加えて、落語家同士の遣り取りからは、間合いや呼吸にムリがあって、やはり難しいんだなと思いました。
かの枝雀さんも、NHKドラマ『なにわの源蔵事件帳』に出演したときに、共演者との掛け合いに苦労したハナシをしていました。
随分前に、その枝雀さんが実弟の松旭斎たけしさんと組んで漫才をやっていたころの映像を見たことがありますが、漫才師としてもとてもレベルの高い芸を、高校生のとき既に身につけていたと感じました。

zap

投稿: zap | 2012.01.14 13:53

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