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2010.03.22

「ゴミ」の理由。

Photoゴミはなぜ「ゴミ」なのだろう、とつまらないことが気になった。「ごみ」でも「塵」でもなく「ゴミ」と書くとき、いかにも用済みの、ゴミの日を待つ「ゴミ」たちの姿が目に浮かぶ。
日頃何気なく接しているカタカナ表記の言葉。「イヤ」「グチ」「ダメ」・・・。本来、外来語やら擬態語に使うことが多いカタカナだが、これられっきとした日本語を敢えてカタカナ変換するのはなぜなのか。そこには、我々日本人が生活の中で付き合う様々なモノや事柄に対する捉え方や距離感を照らす、日本人特有の“クセ”を感じ取ることが出来る。
携帯電話は、今では「ケータイ」と記すことが普通になったが、こう書くことで軽快さが随分違うように感ずる。 また、自動車を言い換えた「クルマ」。 「くまる」や「車」と書く場合とは異なる手軽さ快適さが伝わってくる。文明の利器としての両雄とも言えるこれらの道具は、カタカナで表記されることで、その便利さ、速さ、スマートさ、親しみやすさといったプラス方向への強調が読み取れる。
一方、冒頭に記した「イヤ」「グチ」「ダメ」などは、大方マイナス方向の意味合いを持つ場合が多い。 ところが、これらの言葉を「厭、愚痴、駄目」と書くと、何故かそれぞれの深刻さが増すように見えるから不思議だ。 カタカナ表記をするとき、日本人の心理に深刻さレベルを抑える力が働くのかも知れない。
この“仕組み”は、企業のブランドにも応用されているように思う。 例えば。豊田、本田はそれぞれ「トヨタ」「ホンダ」で、淀橋や島村は「ヨドバシ」「シマムラ」だ。 カタカナに置き換えることで、漢字の持つシリアスさや緊張感を緩め、親しみを増すことを意図しているように思う。
さて件の「ゴミ」。 毎日のようにせっせと家に持ち込んでは、毎週決まった日に捨て去るこの不要物たち。もとより何のためにもならないはずの「塵」なのだが、案外親しみを込めてこう表記しているのかも知れない。

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