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2007.07.07

30年目の命日に思う。

30年前の今日。ワタシの父親は重病と半年近く闘った末、荻窪の病院で世を去った。父56歳、ワタシ20歳の夏。当時父は損保会社に勤務しており、社歴もそこそこ長かったこともあってか、会社では結構な騒動となったことを後に聞いた。死の数日後に執り行なった、高井戸教会での葬儀には、驚くほど多くの会社関係者の弔問があり、惜しむ声をイヤと言うほど聞かされたことで、普段殆ど接触することもなく、短い付き合いでもあった父の存在感を知ることのできたセレモニーでもあった。

絵に描いたような会社人間。
この世代のサラリーマンにはけして珍しくはないが、仕事へ向かう姿が父の標準イメージだ。特段の趣味も持たず、休日はたまに同僚とゴルフへ行くか自宅で静かに碁盤に独り向かう。家族との会話を楽しむ、といったことを殆ど志向していなかったようだった一方で、色をなして怒ったり手を上げたりしたことも皆無。幸か不幸か、ワタシは両親がケンカをしているのをただの一度も見たことはなかった。

そんな父を重病が襲う。腹部の傷みに堪えかねて切開手術を受けたとき、癌は既に複数の臓器を蝕んで、治癒の見込みは殆どなし。主治医からは余命半年から1年と宣告される。そして、父はこの医者の見立てどおり、手術から約10ヶ月後の七夕の朝、息を引き取った。

我慢のし過ぎは、イノチを縮める。
父が旅立った後で母や姉としみじみ語ったのは、そんな素朴な“法則”だった。終戦間際に学徒出陣と称して兵役を経験した父にとって、我慢は生きざまのキホン。自らを厳しく律し、自我を犠牲にして勉励・労働することがサムライの心得、と叩き込まれていたのではないかと思う。会社でのストレス、家庭の心配事、そして自分自身の悩み事等々、あらゆる“火種”を我慢の底に蓄積させてはいなかったか。そして、病の兆候自体を、我慢の対象として封じてはいなかったか。

その後30年。医療技術の進歩や健診の強化もあり、癌は不治の病ではなくなったと言われるが、その発症や死亡者数は増え続けているという。これは、生活習慣の変容、とくに食生活の影響が大きいと思うが、ストレスの種が増え続ける社会、否応なしの我慢が強いられる生活そのものが“火種”となってはいまいか、と思う。

***

ワタシは父の生前、その歌声を聞いたことはなかったが、母校である旧制・旅順高校の寮歌『北帰行』には特別な思いがあると聞いたことを思い出した。小林旭がそのアレンジした曲をヒットさせたことがあったが、原曲の詩をあらためて読めば、志半ばで旅立って行った父の無念さと重なる。


北帰行[作詞・作曲:宇田博]

窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人一人
涙流れてやまず

建大 一高 旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)干すに由なし

富も名誉も恋も
遠きあくがれの日ぞ
淡きのぞみはかなき心
恩愛我を去りぬ

我が身容(い)るるに狭き
国を去らむとすれば
せめて名残りの花の小枝(さえだ)
尽きぬ未練の色か

今は黙して行かむ
何をまた語るべき
さらば祖国わがふるさとよ
明日は異郷の旅路
明日は異郷の旅路

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コメント

北帰行 寮歌

 以前、テレビで宇田さんの特番がありました、感動的な番組でしたね。彼は、旅順高校時代も彼女がいて寮に帰らんかったそうですよ。(笑)

 確か、彼の友人との交流を描いたドキュメンタリーだったと記憶します。当時の旧制高校の連中が如何にレベルが高いものであったか、詩を吟ずれば判りますね。

投稿: jo | 2007.07.09 11:25

joさん。
宇田博さんは父の知己だったようです。同じく旅高時代の友人だった稲葉清右衛門さんという会社の大先輩を新人の頃訪ねたとき、親族の誰からも聞くことのできなかった若い頃の父の様子を語っていただき、感動したのを思い出します。
自由と自治を尊重する旧制高校の文化も、今はムカシ、ですね。

投稿: zap | 2007.07.09 23:07

zapさん。おっしゃるとおり、我慢のし過ぎは命を縮めます。5月に死んだ私の父もそうでした。医者嫌いの検査嫌い。もうかれこれ20年も前から狭心症の発作を起こしたりしていたのに。毎年、健保組合から一度も医者にかからなかったごほーびが来ていました。遺品を整理していて、卓上日記を見ると、日を追うごとに「不調」とだけ書かれたページが次第に増えていました。なんで云ってくれなかったのかなあ、と思いましたが、痛いだの痒いだの云わないのをよしとする世代なんだろうから、仕方がなかったのでしょう。死の床で戦争の幻を見ているようなうわごとを云っていました。天井に死んでいった戦友の姿が見えていたようです。
それにしても人一人世の中からいなくなると恐るべき量の事務手続きが発生するもので、母と、姉兄私姉婿、都合5人がかりでやってみんなそれぞれがへたばりました。私は遺族年金の手続きを受け持っていますが、ご存知のとおり年金制度の複雑怪奇さゆえ社会保険事務所の担当者すら漏れなきように手続きができないという有様、戦いはまだまだ続いています。

投稿: 赤壁周庵 | 2007.07.10 18:50

赤壁周庵さん。
ガマンやら忍ぶなどということとはまず無縁だったワタシの祖父は、仕事や趣味に好き放題の生きかたを貫いて、一切惚けることなく99年10ヶ月生きました。この事実もワタシにとってかなりインパクトのある事実。長生き即ち仕合わせ、ということでは無論ないですが、仕合わせなら、長く生きるのがお得、ということですか。

投稿: zap | 2007.07.11 21:33

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